光石 信幸君
2006年 08月 09日
61年前の今日の午前11時02分に、原子爆弾のために7万4000人の人が一瞬で命を奪われてしまった。
そして、13年前、47歳で光石信幸君は亡くなった。
『”彼は生きた”長崎原爆小頭症を背負った胎内被爆者・・・その生涯』
原爆小頭症とは、知能と身体に障害が・・・・しかも母親の胎内にいる時・・・父は原爆で死亡、
母親は88歳で原爆病院にいるが、眼が見えなくなっている。
中学を卒業して、家の世話にはならないとして、自立の道を・・・しかし、自分が原爆にあったとか、そのために病気を持っていることも、知らされていなかったのです。
横山照子さん曰く『光石さんの生涯を知っているものが、伝えていかなければ・・・』と・・・
彼のテープが残っている。『かわいそう・・・イヤですね。一人の人間としてみて欲しいですね。』
アメリカは、原爆の後遺症を検査し続けていたらしい。9歳から26歳まで、毎年、知能検査と身体測定が残っている。中学校の担任も、彼の症状については、知らされていなかった。
中学を卒業して、パン屋で働くが、原因不明の足・腰の激痛で辞めざるをえなかった。
彼は、原爆手帳も持っていなかったのである。右大腿骨に異常が・・・
自動車工場での事、ストーブでズボンが焼けているのに、彼は気がつかなかったそうです。
それも、二度も・・・でも、彼が気に入っていたのは、昼休みのキャッチボール・・・
日本は高度経済の最中・・・人々の暮らしが良くなっていく・・・でも、その頃に彼の体内には
大きな変化が・・・13年経ってから原爆手帳を獲得・・・しかし生活保護は受けなかった。
病状は悪化・・・26歳で原爆小頭症と認定された。そして横山照子さんと出会うのです。
自分史を書く気になっていくが・・・病魔が、それを許さない。
『自分の事を書かなきゃ、死ねん』と・・・平成4年秋、呼吸する事も難しくなり・・・
主治医が『万が一の場合、解剖を』 快く快諾されたそうです。
最後に、彼の肉声・・・私の考えは、もう二度と戦争はして欲しくない。私のような人間を作ってはいけない。』
そして、13年前、47歳で光石信幸君は亡くなった。
『”彼は生きた”長崎原爆小頭症を背負った胎内被爆者・・・その生涯』
原爆小頭症とは、知能と身体に障害が・・・・しかも母親の胎内にいる時・・・父は原爆で死亡、
母親は88歳で原爆病院にいるが、眼が見えなくなっている。
中学を卒業して、家の世話にはならないとして、自立の道を・・・しかし、自分が原爆にあったとか、そのために病気を持っていることも、知らされていなかったのです。
横山照子さん曰く『光石さんの生涯を知っているものが、伝えていかなければ・・・』と・・・
彼のテープが残っている。『かわいそう・・・イヤですね。一人の人間としてみて欲しいですね。』
アメリカは、原爆の後遺症を検査し続けていたらしい。9歳から26歳まで、毎年、知能検査と身体測定が残っている。中学校の担任も、彼の症状については、知らされていなかった。
中学を卒業して、パン屋で働くが、原因不明の足・腰の激痛で辞めざるをえなかった。
彼は、原爆手帳も持っていなかったのである。右大腿骨に異常が・・・
自動車工場での事、ストーブでズボンが焼けているのに、彼は気がつかなかったそうです。
それも、二度も・・・でも、彼が気に入っていたのは、昼休みのキャッチボール・・・
日本は高度経済の最中・・・人々の暮らしが良くなっていく・・・でも、その頃に彼の体内には
大きな変化が・・・13年経ってから原爆手帳を獲得・・・しかし生活保護は受けなかった。
病状は悪化・・・26歳で原爆小頭症と認定された。そして横山照子さんと出会うのです。
自分史を書く気になっていくが・・・病魔が、それを許さない。
『自分の事を書かなきゃ、死ねん』と・・・平成4年秋、呼吸する事も難しくなり・・・
主治医が『万が一の場合、解剖を』 快く快諾されたそうです。
最後に、彼の肉声・・・私の考えは、もう二度と戦争はして欲しくない。私のような人間を作ってはいけない。』
by rakuzenndannti
| 2006-08-09 23:35
| 戦争